セカイにひとり

第二章「欠けたセカイ」 前編

(World Line Kigumi-F)

 

 

目が覚めた。またいつもの夢を見ていたらしい。急速にその輪郭が失われていく。自分に大切な人がいる、そんな感じの夢。

木組みの家と石畳の街の高校に進学するとともに、母の友人である香風さんの家に下宿することになった。高校の方針で、下宿させてもらうとともにその家で奉仕するように伝えられていたため、香風さんが経営している喫茶店「ラビットハウス」で働くことになった。今日は土曜日で、朝から夕方まで店番をすることになっている。

「ふわあぁぁぁ……おはようございまーす……むにゃむにゃ」

「おはようココアちゃん。朝ごはん用意できてるわ」

ダイニングに顔を出すと、サキさんが笑顔で出迎えてくれた。ラビットハウスはサキさんとタカヒロさんが夫婦で切り盛りしている。子どもさんはいなくて、ひと月前にココアが下宿することが決まった時は「娘ができたみたい!」ととても喜んでくれた。

焼きたてのパンを食べ、サキさんが入れてくれたコーヒーを飲むと、ぼんやりしていた意識がしっかりしてくるのを感じた。……えーと、これはブルーマウンテンだね! 働き始めて三週間、豆によるコーヒーの味の違いが少しわかるようになってきた。

 

「それじゃ、今日もいちにちがんばりましょう!」

「はい! サキさん!」

朝九時、お店の外に看板を立て、ドアの札を返して「OPEN」にした。開店と同時にお客さんが何組か来て、早速忙しくなった。厨房でタカヒロさんがモーニングプレートを作り、サキさんがコーヒーを淹れ、私がウェイトレスとして客席の間を行き来する。サキさんいわく、私が来てからお客さんが増えたらしい。「ココアちゃん目あてのお客さんが多いんじゃないかな? 招き猫さんだね! ありがたや~ありがたや~」……サキさんはとても快活で面白い人である。私も見習いたい。

十時半、お客さんの流れが一段落した。このあとまたランチタイム、午後とお客さんはまだまだたくさん来る。今のうちに客席をピカピカに磨き上げ、カウンターで少し休憩。

「ココアちゃん、学校の方はどう?」

「はい! だいぶ慣れました! おともだちも何人かできました。意外と私みたいに遠くの街から来て下宿している子が多いみたいです」

「そうね~。あの高校は昔からそんな感じね。いろいろな街の様子が聞けて楽しかったわ」

「楽しいです! お父さ……父が働いている大学がある街からも来てる子がいて、話が盛り上がりました!」

「アルバイトと勉強の両立、大変じゃない?」

「うーん、高校の方でそのあたりは配慮してくれてるので、なんとかなってるかなって感じです。数学と物理は面白いんですけど、国語と英語がちょっと苦手で……」

「あはは……」

お店にひとりの若い女性が入ってきた。

「いらっしゃいませ~、あ、青山さん!」

「こんにちは~」

小説家の青山ブルーマウンテンさん。二日に一回はラビットハウスに来て、コーヒーを飲みつつ原稿を書いている。インスピレーションを得るために、毎週土曜日はラビットハウスのバータイムでも働いている。

「今日は何になさいますか?」

「オリジナルブレンドをお願いします~」

サキさんが淹れたコーヒーを持っていくと、そのまま青山さんに捕まってしまった。

「ココアさんみたいな方を主人公にして、お話を書いてみようと思っているんです」

「えへへ、光栄ですけど……私特に面白いところとかありませんよ?」

「ココアさん、よく公園でうさぎに懐かれていますよね。稀有な才能だと思うんです。そうだ、『うさぎに愛された少女』、これで書いてみましょう」

青山さんはそう言うと、原稿用紙に万年筆を滑らせはじめた。綺麗な文字でマス目がどんどん埋められていく。私は作文が苦手なので、こうしてさらさらと文章を書ける人にはとても憧れている。青山さんが集中モードに入ったので、私はそっとテーブルを離れた。

一時落ち着いていた店内に、またお客さんが増えてきて、それからはてんてこ舞いだった。こう、あとふたりくらい店員さんが――あれ……? ふたり……?

この街に来てから、時々頭が痛くなる。なにか大切なことを思い出せない。そんな感じの痛み。

「店員さーん」

「あ、はーいただいま!」

思考は中断され、客席の間を走り回っているうちに、心の引っ掛かりのことをいつの間にか忘れていた。

 

午後四時、ラビットハウスのカフェタイムが終わる。午後六時からのバータイムはタカヒロさんが独りで仕切り、私とサキさんは少々休憩。

「ココアちゃんお疲れ様。今日も盛況だったわね」

「すごいです! 街一番の人気店なんじゃないですか?」

「そうだといいわねえ。これもココアちゃんのおかげね。お義父さんがお店を始めたばかりの頃は、閑古鳥が鳴いてばかりでね、私が兼業キャリアウーマンとしてバリバリ稼いで 支えていたの」

「キャリアウーマン……! 憧れます!」

「ありがとう。しばらくしてタカヒロさんが退職して、バータイムを始めたらお客さんが来てくれるようになって、それでお店が軌道に載ったの。でもね……」

サキさんはそこで一度言葉を区切ると、寂しそうに窓の外を見た。

「お義父さんが倒れて、そのまますっと逝ってしまった」

その頃のことは、私も覚えていた。葬儀のためにお母さんがこの街へ行ったんだった。

「もう五年も経つのね……」

それを期にサキさんも退職し、ラビットハウスをタカヒロさんとともに盛り立てていると話してくれた。

「私、お店でお役に立ててますか?」

「もちろん! ココアちゃんのおかげでお客さんがいっぱい増えてるし、かわりばんこで休めるようにもなってとても助かってるのよ」

「よかった……」

 

お風呂に入り、お湯に浸かりながら、この三週間のことを思い返していた。故郷を旅立つ時、お母さんとお姉ちゃんが駅まで見送りに来てくれた。不安でいっぱいだったけれど、でもお姉ちゃんがぽろぽろ涙をこぼしながら抱きしめてくれたから、とても安心した。この街に着いてから、香風さんの家を探し歩く頃にはとてもわくわくしてきた。街にいっぱいいるうさぎさんとも触れ合って、道を訪ねようとして入った喫茶店「ラビットハウス」が、目あての香風さんちだった。

サキさんとタカヒロさんが暖かく出迎えてくれ、その日からラビットハウスでお仕事を始めた。最初は注文を取って、コーヒーをこぼさずに運ぶのがやっとだった。コーヒー豆を運ぼうとしてびくともせず、タカヒロさんに助けてもらった。サキさんが豆一袋を軽々と持ち上げたのにはびっくりした。

高校でもすぐに友達ができた。クラスのみんなと仲良くなって、連絡先を交換したのは自慢です、えへん。学校でもおうちでも、みんなとすぐにこみゅにけーしょんできるのは楽しいね!

でも、何か忘れている気がするんだ。そのことを考えると、どうしてかわからないけど、とても胸が苦しくなる。ひょっとして恋なのかな、そう思ってクラスの子にそれとなく話してみたら、

「ココアちゃんはとてもモテそうだしねー」

「忘れてしまった想い人がこの街にいるんじゃ!?」

そこから恋バナ? みたいな感じになった。やっぱり恋じゃないみたい。どちらかというと、生き別れの姉妹を求めるような感じ? なんだかよくわからないけど、でもいつもみたいに「まあいっか!」と割り切ってはいけない気がした。

「この気持ち……なんだろうなー……」

なんか頭がぼんやりしてきた……

「ココアちゃん大丈夫ー? あれっココアちゃん、ココアちゃん!」

 

「ごめんなさいサキさん」

気づいたら、お部屋のベッドの上にいた。サキさんがうちわで私をあおいでくれている。お風呂でのぼせてしまったらしい。

「びっくりした。お風呂から半分乗り出したような感じでぐったりしてたもの。溺れなくてよかったわ」

体も頭も茹だってしまって、それ以上考えることはできなかった。

 

日曜日。今日はラビットハウスでのお仕事はお休みになった。もう体は大丈夫だとアピールしたけれど、サキさんとタカヒロさんの両方から有給休暇を言い渡された。

「この街をお散歩してみたら?」

サキさんの勧めに従い、まだ歩いたことのないところを中心に街をめぐることにした。

この木組みの家と石畳の街は、とても綺麗でかわいい。この街に初めて降り立った時に感じた、楽しく暮らせそうという直感は正しかった。本当にいい街。なにひとつ不満はない。……でもやはり、なにかが足りない。

ラビットハウスから少し歩いたところに、和風の甘味処「甘兎庵」を見つけた。

「おれ、うさぎ、あまい……?」

「あまうさあん、だよ。変わった子だね」

店主のおばあさんに声をかけられた。せっかくなので入ってみることにした。入口の脇にじっと黒うさぎが座っている。手を振ってみたけどピクリともしなかった。

「うーん、この『スペシャル鯱パフェ』をお願いします!」

「お嬢ちゃん健啖家だねえ、覚悟して食べるんだよ」

「けんたんか?」

「大食いってことさ」

カカカッ、おばあさんはそう笑って厨房に向かった。

出てきたパフェはとても大きかった。でも私の敵ではない。

「いただきまーす」

一口で、超一流の職人さんだと見抜いたよ。抹茶の苦味とあんこの甘味が絶妙にマッチしている。そして鯱とは、一番上に飾られているミニサイズの鯛焼きのことらしい。すごい、手が止まらない。自分でもびっくりするくらいどんどん食べられる。

「ごちそうさまでした」

「素晴らしいですね~」

横からパチパチと手を叩く音が聞こえた。青山さんがそこにいた。

「青山さんいたんですか!」

「ええ、原稿を進めていました」

そう言いつつ、青山さんはなぜかしゃがみ込み、私の膝のあたりを眺めていた。

「ココアさんをまたひとつ知ることができました。原稿が更に進みますね~」

青山さんは週に一、二回は甘兎庵で執筆をしているらしい。ラビットハウスと合わせると……あれ、外でお仕事している方が多い?

「青山さん、やっぱり外のほうがインスピレーションが湧くんですか?」

「そうですね~、街を巡っているといっぱい思い浮かびますね~」

「思い浮かべるだけじゃなくて、ちゃんと形にしな。昨日も凛が泣きながら探しに来たよ。『翠ちゃ……青山先生来てませんか!?』ってね」

店主のおばあさんの言葉にうふふ~、と言いながら目を泳がせる青山さん。締切を守るのはやっぱり大変みたい。

また来な! おばあさんに見送られて甘兎庵を出て、再び歩き始めた。今度は野良うさぎを追いかけてみる。よし、あのかわいい子に決めた!

ぴょこぴょこと移動するうさぎを追いかけていると、広場に出た。そうここで――が、――して……え? 突然心にざわめくものを感じた。なにか大切なものがこの広場にある。でも私はここに来たことがない。ちょっとベンチに腰掛けて考えてみることにした。

今までも、ラビットハウスだけでなく、高校や、街を歩いているとき、こうしてなにか引っかかることがあった。この場所は特にその引っかかる感が強い。でも何なのか全くわからない。こういうときはノートに書き留めておきなさい、大学教授のお父さんはいつもそうアドバイスをくれた。その教えに従い、広場のことを書き留め……あれ、ここどこだろ う?

とりあえず目に入ったものを全部ノートに書き込んでおいた。こうすれば、いざというときサキさんや青山さんに聞くことができるはず。よし、引き続き街を巡ろう。

街を巡っていると、ひときわ大きなお屋敷の前に来た。門の両側を黒いスーツにサングラスを掛けた怖い男の人が守っている。表札には「天々座」とあった。てんてんざ? すごいお金持ちがいるんだなあ、たとえばお嬢様――

ざわめき、ふたつめ。ここにも何かがあるのでは……いつの間にかお屋敷の方に近づきすぎていたらしい。怖い男の人二人がそばに来ていた。

「もしもしお嬢さん」

「こちらの家になにか御用ですかい」

「だだだ大丈夫ですちょっとふらっとしただけです何でもありません!」

慌てて逃げ出した。後ろから「ふらっとしたなら休まれてはいかがですかい?」とか聞こえた気がしたけど怖い! 怖いものからは逃げるのみ! なんかことわざを習った気がするけど忘れちゃった!

 

十分に逃げてきたあと、お屋敷のこともノートに書き留め、街歩きを再開。だいぶおなかも落ち着いてきたし、そろそろ喫茶店に入ろうかな。ふと目を向けると、『fleur du Lapin』という看板が目に入った。なんとかラピン? 近づいてみたら小さい文字で「フルール・ド・ラパン」と書かれていた。ハーブティーのお店らしい。

「いらっしゃいませ、フルール・ド・ラパンへようこそ。ココア様♪」

「ありがとう……ってなんで私の名前……って」

見上げると、お店の制服を着たクラスメイトの姿があった。たしかクラスの委員長をしている、見た目もめっちゃ委員長な……

「ほわっつゆあねーむ?」

「忘れたんかい!?」

委員長でいいよ、と言ってくれたので、ありがたく委員長と呼ぶことにした。しかし、委員長とお店の制服の組み合わせは、

「なんかいかがわしい……」

メニューで頭をはたかれた。

おすすめのハーブティーを聞くと、リラックス効果のあるリンデンフラワーを勧められた。

「ココアはさ、底抜けに明るいようでいて、わりとよく考え込む方でしょ? なんか疲れてる感じもするし、落ち着けるハーブを選んだわ」

「ありがとう。えへへ……前にも同じことを言われ――」

言われた気がする。誰に? なにか思い出せる気がする……でも思い出そうとすると頭が痛い。

「大丈夫? お店の裏で休んでく?」

「ごめん、もう大丈夫」

記憶力に効くハーブティーがないか聞いてみると、ペパーミントティーを紹介された。

「記憶力向上にはこれね。でも記憶を呼び覚ますことができるかどうかはわからない」

リンデンフラワーティーとペパーミントティーを飲みつつ、ノートを見返してみた。これらの場所になにかの手がかりがあるはず。数学で言うところの、未知数を明らかにするための方程式が。

条件を整理したけど、まだ必要なピースが欠けているみたい。欠けたピースを探し出さないと。委員長に見送られてフルール・ド・ラパンを後にし、公園に行ってみることにした。公園にはうさぎがいっぱいいて、ちょこっともふもふすることもできるみたい。

公園の入口にはクレープ屋さんの屋台があった。ハーブティーでおなかがたぷたぷしているので、ここはクレープを食べてバランスを取らないと! 同じことを故郷の街でもしていたら、友達に頭をぐりぐりされたっけ。なんで太らないんだって。

クレープをもきゅもきゅ食べながら近場のベンチに行く。立て看板には、野良うさぎに食べ物を取られたり、鳥にさらわれたうさぎが空から降ってくることもあるので注意しろ、と書かれていた。まさか空から降ってくるなんてね、あるわけないよね。

「あらココアさん、また会いましたね~」

「青山さん! 奇遇ですね!」

青山さんにまた出会った。立て看板に書いてあるようなことが実際に起きるか聞いてみる と、

「ええ。空からうさぎさんが降ってきますよ――」

その時、私の膝に空から黒い塊が着弾した。

「――こんなふうに」

青山さんがウインクした。このうさぎ、どこかで見たことがある。

「あら~、甘兎庵のあんこちゃんですね~。またカラスにさらわれたんですね」

さっきの甘味処のうさぎさんだった。ほっといても自分で帰り着くと思うけど、せっかくなので連れて帰ります~、そう言って青山さんはあんことともに公園を出ていった。

公園のうさぎさんをもふもふしながら考えを巡らせていると、ふと遠くにもじゃもじゃした白い毛玉が見えた。あれもうさぎ? ふと気になって腰を上げると、その毛玉はすごい勢いで逃げていった。もふもふしたら気持ちよさそう。今までもふもふしていたうさぎさんに別れを告げて、毛玉が逃げていったほうを探しに行った。

 

 

毛玉がたくさんいた。

「わぁ……」

ユートピア、えーと、理想郷って言うんだっけ。まさにうさぎもふもふ党党員にとってこの上ない夢だよ! もふもふしたい……じゅるり、おっとよだれが。毛玉にじりじりと近づいていく。おいでー、お姉ちゃんコワクナイヨー、ちょっともふもふするだけだよー。さらに近づいていくと、毛玉の群れも徐々に遠ざかっていきつつあるように見えた。毛玉たちが公園の境目にある生垣まで後退し、もはや逃げ場がなくなったところで、よし、つかまえ――

「うわっ」

毛玉たちが一斉に四方八方に散った。びっくりして思わずしりもちをついてしまった。逃げ足が速く、あっという間に見えなくなってしまった。

「……逃げられちゃったかあ……」

次に来たときはもふもふ作戦をもっときちんと立てよう。今日のところはこのくらいにしてあげるわ、おほほほほ。なんか悪役令嬢みたいだねと、われながら思った。

日がだいぶ傾いてきたので、そろそろラビットハウスに戻ることにした。えーっと、ここがこうで、あっちがそっちで……あれ? あれれ? ラビットハウス、どこ? 初めてこの街に来たときはまあいっか! って諦めちゃった気がするけど、今日はそうするわけにはいかない。野宿になっちゃう。まだ街を独りで歩くには経験値が足りなかったみたい。こんなとき、――ちゃんが迎えに来て――

今日何度目かの、何かを忘れているような感覚。思わずその場にうずくまった。さっきのが一番大切なものに違いない。感覚を思い出すんだ、ココア。

『――ちゃん』

もしかして、誰かのことを忘れている? 誰? 頑張ってみたけど、今日はそれ以上のことは思い出せなかった。でも一歩前進。お父さんが言ってたんだ、研究はわからないことの連続だ、って。何かひとつでもわかったらそれは大きな前進だって。よし、この街での最初の研究テーマは「何か忘れている気がすることを思い出す」にしよう。ラビットハウスに帰って早速研究だ!

立ち上がって一歩踏み出して思い出した。

「ラビットハウスへの帰り道がわからないんだった……」

街をさまよい歩くこと小一時間、フルール・ド・ラパンでのアルバイトを終えて家に帰る途中だった委員長に出会い、無事ラビットハウスまで案内してもらえた。